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2.子飼商店街の歴史




□ 奈良平安時代

「蚕養」と書いて「コカイ」と呼ぶ地名があり、駅馬や伝馬が置かれる場所でした。
それから「子養」→「子飼」と地名が変わっていったそうです。

□ 江戸時代

熊本の玄関口として、穀物や、肥料・農機具、呉服を売る商店が点在していました。
また、下級武士の屋敷が建っていました。
⇒子飼商店街にいくつもお寺があるのは、ここが、江戸時代に他の藩が北から侵入してくるのを防ぐ重要な場所になっていたためです。
敵の進入を防ぐために、武士が集まることのできる、お寺のような広い敷地が必要だったのです。

□ 昭和3年(1928年)

子飼付近(浄行寺町〜子飼橋0.5km)に市電が開通します。

□ 終戦後

市電の終点にあった子飼付近で、露店やヤミ市として商店が集まります。
⇒竜田地区や菊陽・大津町などの農家が、野菜類を馬車やリアカーで運んできて売っていました。
⇒子飼商店街に八百屋が多く、野菜がとても安いのは、その時のなごりです。
*ヤミ市とは、戦後の品不足の時期に、非合法のルートを通ってきた商品を扱う市場のことです。

□ 昭和26〜27年

現在の通りのうち、約100mにわたって、約30軒の商店が建ち並びます。
⇒生鮮食料品の安さが評判になり、遠くからも買物客が集まっていました。

□ 昭和28年の大水害

商店街一帯が土砂や家屋の残骸で、約1mの高さまで埋まってしまいます。

□ 昭和30年代

商店街の通りを、市と商店街で協力して舗装します。
子飼商店街が今の長さ(400m)になり、野菜・鮮魚・食料品などの商店が新しくできます。

□ 昭和40年代

商店街の中央にマルショク(現 サンリブ子飼店)が進出します。
⇒マルショクの進出で、食料品店は大打撃を受けます。
16の商店が廃業したり、他の商売をはじめるようになりました。
⇒マルショクの進出で、少なくなっていた人通りが増え、賑わいを取り戻します。

自動車を利用する人が増え、熊本市郊外に大型店が登場します。
⇒遠くから子飼商店街に通っていたお客さんは、郊外の大型店に行くようになります。

子飼まで来ていた市電が廃止されます。
⇒市電を利用していたお客さんが来なくなります。

□ 昭和50年代

生鮮食品と衣料品を中心に、地元の人が買物に来る近隣商店街として栄えます。
⇒下宿屋のおばちゃん(経営者)が、新鮮で安い商品を、野菜でも味付け海苔でも、箱ごと買っていきました。

*下宿屋とは、家主さんが、そこに住む大学生などのためにご飯をつくったり、ちょっとした身の回りの世話をしてくれる集合住宅です。

□ 今の子飼商店街

下宿屋も少なくなり、以前のように一度に大量の商品を買ってくれるお客が減りました。
⇒大学生が下宿屋ではなく、アパートやマンションに住むようになったためです。

また、ショッピングセンターなどの影響もあり、空店舗が増えています。
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